※付記
下記の原稿文は、2000年の7月に「新いばらき新聞」に発表したものへ若干の加筆をしたものであるが、現在の「美術茨城」の初代代表が斉藤徳三郎であり、新 居広治がその後に続き、牧大介(いずれも故人)が名を連ねたのである。それらは冒頭に示した運動会議の構成メンバーであったことになる。そういえば斉藤徳 三郎と棟方志功が二人で写っている古い写真が手元に残されている。いつどこで誰が撮ったものなのかは定かではないが、確かなことは4代の代表となって活躍 し、特に初代代表の斉藤徳三郎とは個人的にも深い親交があった臼井博さんから頂いたものには違いない。
斉藤徳三郎は画家たちばかりではなく、武者小路実篤などとの親交も深 く、大子町に残した文化的な足跡は数多くあり、それらの業績を顕彰しようとして「美 術茨城・臼井博代表」の時代に水戸市で行われた遺作展の記憶は新鮮に残っている。しかしそれらの記憶も風化して時代と共に人々の記憶から消えうせようとし ている。(極めて個人的なことではあるが、大子町の中でも特に斉藤徳三郎の芸術性を理解し、精神的にも物質的にも援助を続けてこられた中井富雄氏の主宰で 夕食会が催されたとき、招かれて斉藤徳三郎と同席させて頂けたことは私にとっては名誉でもあり、忘れられない思い出でもある)。
野に叫けんだ人々の声は、やがて野に埋もれて消えていくのが歴史であるとすれば、たとえささやかではあっても、それらを後世に残そうと努力することも、 今に生きる我々の務めではないのだろうか。 菊池国夫(大子町在住)
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はじめに
栃木県立美術館において、表記のような「野に叫ぶ人々展」が催されたのは、2000年の4月から5月にかけての期間であった。
サブタイトルの「北関東の 戦後の版画運動」にも見られるように、主な出品者には鈴木賢二・新居広治・滝平二郎・飯野農夫也・上野誠・小口一郎などの
名前も見え、個人的にも馴染みの 深いそれらの作品を観ることは楽しみなことでもあった。しかも北関東という地域に住んでいる私にとっては、戦後の文化
活動の歴史を回顧するには、最も具体 的なそれらの先駆者の軌跡を見られるとあって、早速に長男を伴って駆けつけたものだった。
ところが、会場を入ってすぐに飾られていた1枚の写真を見て、思わず声を上げたくなるほどのショックを受けてしまったのである。何となく見覚えのある
校 舎の窓は、まぎれもなく私が学んだ大子の小学校であり、その前にたむろする群衆の中には数人の知人の昔の顔があったのである。
「いったい、大子町で何が あったのだ!」そんな興奮を鎮めながら会場を一巡した後で、私はもう一度写真の前に立っていた。そこには
昭和22年(1947年)10月に、版画運動の烽 火が大子町から挙げられたことが示されており、そこから全国に広まっていったことが記されていたのである。
簡単に当時の概要を説明するならば次のようになる。日本美術会北関東支部の結成は終戦の翌年(1946年)の6月のことであった。
当時の社会情勢がどのようなものであったかを更に付け加えるならば、「A級戦犯者28名への起訴状」が発表になったばかりの頃で、敗戦というショックの中
での極度の食料の欠乏 に民衆は飢えていた時代であった。巷には進駐軍、パンパンガール、復員兵、買出し、闇市、スイトン、代用食などの言葉に代表される
ような大混乱の中で、一 般の民衆はひたすら空腹を満たす願望に翻弄され続けたのである。その頃の朝日新聞の広告の中にこんな文字があった。
「農漁村と運搬業の方々へ。リヤカーの 特別予約提供。鉄骨パイプとノーパンクタイヤ付き。」─── 当時の運送業がまだまだ人力に頼っていたことはもちろん、
ノーパンクタイヤとは、チューブのない棒タイヤと呼ばれていた合成ゴムのことであり、鉄 骨パイプは当時としては魅力のある高価な素材でもあったのである。───
そのような混乱の中から「食べることよりも文化を!」と立ち上がった人々によって、その翌年の10月に大子町の小学校で「全日本新木刻運動会議」を発足
させたというわけである。協賛として大子町教育委員会、奥久慈版画会(大子町の住民を対象にした組織で、すでに機関紙や版画作品なども発表していたから、
組織として結成されたのは当然その前年?昭和21年の日本美術会北関東支部の結成?にも関わっていたことだろう)などが名をつらね、当時の町長石井覚一
(現在の家久長酒造店主の祖父)が祝辞を述べている。
ついでに記しておけば、奥久慈版画会が発行した『版画通信NO1』には、同町長は次のような序文を寄せている。
「(前略)十六年の昔、上海に日本の制作版画が、魯迅先生・内村嘉吉先生(内山完造の過ちか? 後述の内山嘉吉の誤りか)により移入せられて、急速に
広範 囲に中国全土にたくましき民芸として発展していった事実と照応して芸術に国境はなく……。奥久慈保内郷(当時は現在の大子町をそのように呼称していた) が、
文化圏として独立の形をとっていく上にも、この同好の研究会が生まれることを切に望んでやみません。」(原文のまま)
焦土と化した廃墟から立ち上がろうと、日本の国民は「一億総懺悔」しながら、過ちは二度と繰り返しませんと誓い文化の復興にも目覚めたのである。
このよ うにして町を挙げての歓迎の様子も特筆すべきであるが、その後の入会者を含めて次のようなメンバーが顔を揃えたものである。
飯野農夫也(この運動の中核をなし『版画通信』の編集も手がけた)新居広治・滝平二郎・服部正一郎・若林一男・浅野新次郎・鈴木賢二・小口一郎・
斉藤徳三郎・沼田秀郷・下村信一(牧大介)・益子二三子・原豊孝(大子町での会議を設営して『版画通信』の発行人)の他に、20人ほどの名があるが省略する。
この会議の議案の提出者としては「中日木刻家の提携について」内山嘉吉、「木刻資材の木刻について」原豊孝、「全日本木刻運動について」小野忠重、
「職 場木刻について」山崎猛、動議として「中国木刻協会へのメッセージを送りたい」などを島田政雄が提案を行った。続いて講演となり「中国の木刻について」
土方定一、「中日の文化交流について」松本実松、「近代中国におけるヨーロッパ精神」実藤恵秀等が演壇に立つという豪華なものでもあった。
栃木県立美術館特別学芸員の竹山博彦は、この企画展の解説の中で「八溝山系に位置する大子町で開催されたこれらの企画は、鈴木賢二が?刻画会?を全国的
な組織として認知させようとした行動のあらわれと見てとれる。」と説明しているように、戦前からのプロレタリヤ運動にかかわった人々を中心にして急速に
広まっていったものであろう。── その頃わずか15歳の私には、敗戦の混乱から立ち直ることも、これらの運動の姿でさえ全く記憶にはないのである。───
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版画から詩の運動へ
『版画通信NO1』の編集後記に、飯野農夫也はこう記している。
「版画通信の体裁はささやかであるが、日本の新しい版画の進む道を最も早く歩むものとしての使命は必ず大きいに違いない。開拓者の自覚を深くして、種々な る困難と障害の除去に努めねばならないだろう………。」
極度の物資の不足の時代であったればこそ、それぞれの会員が紙を持ち寄って「ガリ版」と呼ばれる謄写版の印刷をしたのであろうが、粗悪な紙は現在ではぼ ろぼろになって文字さえ定かには見えなくなっている。しかしながら寄稿している学生たちのたどたどしい文章には、平和な文化国家の建設に寄与できる喜びに 満ち溢れ、明るい希望の夢に満ちていた。その中には17人の版画作品が紹介されているが、
「作者が素人であり、しかも生まれて始めて試みたことを聞けば、意外な感に打たれるであろう。」(前章のあとがき)のように、今見ても生き生きと輝いて見 える作品群である。
続いて『版画通信No2』が発行されたのは、前記の「全日本木刻運動会議」に合わせたもので、サブタイトルには「版画まつり記念号」と銘打ってある。そ の中には10枚の版画作品と共に9編の詩が紹介されるようになってくると、どういうものか版画の作品よりも詩を中心にした文芸誌に変化するようになってく るのである。
これは美術家であると同時に詩人でもあった飯野農夫也の影響が大きかったことは言うまでもないことだが、もう一方では版画の制作に携わっていた同人たち が、それぞれの事情で大子町を去っていったことも実情であったかもしれないのである。しかしこの時点では、まだまだ明るい未来が約束されていたに違いな い。その編集後記の中で飯野農夫也は次のように記している。
「日本での始めての行事(木刻まつり)と、日本新版画の誕生というべき?全日本新木刻運動会議?が、この大子町で開かれることは、地方や農村から日本の文 化が新しく切り開かれていく、これも一つの胎動であろうか……。」
とその喜びを率直に表しているのである。
その翌年(1948年)の4月、こうして『版画通信』に代わって新しく詩を中心にした『詩草』が生まれたのである。その中心となるのは飯野農夫也と原豊 孝であったが、当然のようにみずみずしい新しい生命が誕生してきたのだった。その編集と発行に携わったと思われる船山敏子と川口陽子の名で編集後記には次 のような言葉が記されていた。
「終戦後、私たちは生きる目標を見失い、迷い悶えておりましたとき、飯野先生との邂逅によって新しい詩の世界を知ることができました。……」
版画家飯野農夫也は同号の中で「詩を読む」と題して次のようなエッセーを寄せているが、早熟な画家と詩人の片鱗が見えて今読んでも見ごたえがある。
「詩は面白いものだと思ったのは子供の頃からであった。……岡本潤とか金子光晴・尾崎喜八・井上康文などの詩が好きで今でもそれらの一節を覚えてい る。……アクションという雑誌があった。その中で三好十郎が「美」よりも「正義」だと主張していたが、戦旗という雑誌で中野重治や森山敬が元気な詩を発表 していて、蔵原惟人がプロレタリアリズムを明快に説いているのを、中学生の私は感激を持って読んだ。……昭和十二年に伊藤新吉に会った。高村光太郎や萩原 朔太郎に関心を持ち出したのはそのころからである。少年の日に私が感心した詩人は、いずれもプロレタリアの詩人でありヒューマニストであった。」
続いて『詩草NO2』が発行されたのが同年の8月であるから、その充実したエネルギーの強さは驚嘆に値するものだろう。その頃には会員も23人に膨れ上 がり、発表されたものはすべてが詩作品であった。そんな中でも、やはり飯野農夫也の「詩について」のエッセーは大きな迫力とインパクトを持っていた。
「戦争という現実の醜悪に追い詰められ、ほとんど窒息するような思いで私は暗い十数年を送った。その間私は泣きながら詩にすがりつき、詩によって僅かに現 実の醜悪な魔の手を払いのけてきた。昭和二十年八月十五日をピリオドにして、暗くむせび泣くような現実は私の眼前から消えうせた。…… 今の私の詩は、そ れらの十数年前よりも若く元気である。またそうでありたいと念ずる。」
更にはこの号には『詩草』の創刊を祝って、作家の江口渙が一文を寄せているのも興味深いことである。
「(前略)飯野農夫也君の?若い土?もいい詩である。何か力強いものが行と行の間から盛り上がっている。原豊孝君がこれだけいい詩を作る人だとは実は知ら ないことだったが、更には飯野君が詩を作ろうとは、これまた私は知らなかった。」
驚きと期待にペンを走らせたのだろうが、一つ一つの作品に対して懇切に解説と批評を述べているのは微笑ましくもあった。
このようにして華々しい『詩草』のデビューではあったが、その編集後記にはその後の暗い道のりを暗示するかのような言葉で締めくくられていたのである。
「周囲のくだらない誤解や非難に負けて折角の向上心を台無しにして、狭い殻の中に自分を閉じ込めてしまうことは誠に残念なことです。詩の道は果てしなく険 しく、吹き付ける風は、みぞれ混じりの頬を刺すような冷たさです。」
『詩草』の編集に携わることによって、純粋な乙女心に燃えた清らかな人間愛の謳歌ではあったが、もともと保守的な土壌の奥久慈の大子町という風土の中で は、このような運動が如何に困難であったかを忍ばせて、痛々しくも感じられる「あとがき」になってしまったのである。
その当時の社会の情勢を簡単に回顧すれば、次のような戦後の「黒い霧」に包まれた歴史の流れが展望されるのである。団体等規制令の公布、公務員定員法の 成立をテコに行政整理の開始、三鷹駅無人電車の暴走、下山国鉄総裁の怪死、松川事件の発生などによる世情の不安、共同謀議による犯行か否か、占領政策によ るでっち上げか否かで世論は騒然としてきたのだった。その翌年になると集会やデモは禁止され、レットパージは言論界から公共機関、民間企業まで及び、つい に朝鮮動乱へとつながっていったのである。もっとも身近なものでは、当時の映画界にもおよび、松竹・大映・東宝などでも110人が解雇され、非専属の滝沢 修・宇野重吉・岡田英次などは、その重厚な演技などには関係なく各社から敬遠されるというような状況でもあったのである。
純朴な農村の片田舎にあった大子町の住民が、このような社会の不安にどのように対処したかは説明するまでもなく、折角芽生えたやわらかく華奢な頬には 「刺すような冷たさ」であったことは想像に難くないことである。
ところで日本人が3度の食事に白米が食べられるようになったのは、歴史的に見ても1950年代になってからのことだということを多くの人は忘れようとし ている。食料の安定に伴って経済の復興も目覚しくなってくると、人々はこぞって「中流家庭」に安住することを願望に働き、かつて民族として経験することの なかった平和に酔いしれるようになると、『詩草』の根底に流れているような思想や哲学から離れて、モラルのないバブルの世界「一億総不動産屋」へと世相は 変化していったのである。
そのようなツケ(文化を伴わない経済の発展)が、今日どのような形で跳ね返っているか私がここで論じるまでもないことだが、家庭の崩壊、いじめ、モラル のない産業の発達に伴う公害と環境の破壊など、全く無縁ではないのである。
このような状況の中で『詩草』に集まった人々は、故人になられた人のほかには地元には原豊孝だけが取り残される形になってしまった。その頃の作品に次の ようなものがある。
「山々に囲まれた谷間の町で/ 私が戦い始めてから三年/ 厳しいインフレの中で/ 収入のあてにならない暮らし……/ 金にもならないことに夢中になっ て/ というお前の肉親たちの/ 無理からぬ非難にも耐えて/ 闘いぬいてきた/ 妻よ…… 」
都会育ちの原が、夫人の故郷の地に仮の住まいを構えて孤高の精神を高揚させようとしたことは、皮肉なことに、それらの人の幸せを願う対象でもある多くの 人々との、ますますの隔絶を大きくしていく結果となっていったのである。純真で素朴な民衆は、土地の者ではないという保守的な連帯の中で、ときには精神的 には村八分的な制裁を加えている加害者であるという意識もなく、いつもおおらかに実直な働き者であった。(断るまでもないことだが私は歴史の審判者ではな い。しかしながら、個人の欲望を望まず、社会的地位や名誉を追いかけることもなく、孤独な戦いにもひるむこともなく、その信念を貫くために清貧に甘んじな がら節操を守り抜いた事実は驚嘆に値するものだろう。逆に言えばそれらの妥協を許さない硬い姿勢が、田舎の風土には馴染めない要因でもあったのである。)
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二十世紀の記録
しかし一粒の麦は芽生え育っていたのである。1977年の『常総文学』第9号は「飯野農夫也特集」になっており、そこにはかつての『版画通信・詩草』で 活躍した高橋敏子・鈴木二三子がその思い出を寄せていたのである。
「昭和二十二年六月、茨城の山奥大子町の小学校に木刻版画展が開かれた。暗い戦争の中で学生時代をすごした私は戦後の混乱の中で、人間らしいもの、明るい 文化的なものを求めて若い心は飢餓状態にあった。……その会場で私は始めて飯野さんや、この展覧会を企画した原さんという熱心な青年にお会いした。……私 は絵が下手なので『詩草』という詩の同好会へ入会した。……その後飯野さんは実に精力的に詩の指導に当たられ、講習会は毎月一回開かれ、夜遅くまで熱心に 続けられた。」(高橋敏子)
「田舎の町のことで、文化の波の微妙な動きまでは届かないような、我が愛すべき故郷大子町の小学校の一教室で版画の個展が開かれておりました。主催者の原 豊孝さんと、飯野農夫也さんから気さくに声をかけられて、初めての版画展を落ち着いた気分で観ることができました。……終戦直後の山村のことで、精神・物 質面でも混迷していただけに、若い人の間に大きな共感を呼んだようでした。……その頃、大子で黒田清輝の油絵や、中村彝の?エロシエンコの像?を鑑賞した 記憶があります。……若いとき、高橋さんは詩を通して、私は版画を通して飯野さんを語ったものです。」(鈴木二三子)
県西の下館市に住む1913年生まれの飯野農夫也が、当時の劣悪な交通事情の中にもかかわらず、何故奥久慈の大子町へと情熱を傾けたのかの定かな事情は 分からない。しかしその後の深いかかわりを持った新居広治や、牧大介と「新いばらき新聞」との結びつきは因縁が感じられてならない。1984年の頃、飯野 は「新いばらき」の当時の編集長宛に次のような依頼の手紙を送っている。
「内山完造の?同じ血の流れの友よ?にも?魯迅の思いで?の中でも、終戦まもなく全日本木刻運動会議を行った場所が、千葉県大子町になっている。これは茨 城県大子町であることを国際的に確認しておく必要がある。千葉県を茨城県に直すことは簡単だが、原君が健在なうちに、大子木刻の花火を揚げた実情を生きた 表情を持って、国際的に証明をしたいと思うのだが……。」
編集長は早速その旨を原に伝え原稿を要請したのだが、それから20年を経ようとしている今日まで、原は自分の口からそれらを語ろうとはしなかった。「野 に叫ぶ人々展」を企画した特別研究員の竹山博彦は次のような結語を記している。
「二十世紀の歴史は、努力が正当に報われる社会の実現に努力した人々の時代といえるだろう。経済的貧困からの脱出という庶民の共通する願いが、ネガティブ に作用したのが、第二次大戦の遠因であり、今日の民族主義、排外主義の原因かもしれない。戦後の版画運動に携わった彼らの活動は、生活の向上とは、経済的 発展だけではなく、知的向上に努力する結果生まれる文化というものの重要さを私たちに伝えているのである。この展覧会を企画したのも、いま一度今世紀のも つ意味を検証してみたいと考えたからでもある。」
いずれにしても、このように茨城に深い関係を持つ作家と作品の企画展が栃木県立の美術館で催されたことの意義は大きなものがあり、すでに風化にさらされ て地元の人々の記憶からも消えようとしている歴史的な事実が実証されたことの意味は大きなものがある。更にはこの小さな山間の大子町が、戦後の版画運動の 発祥の地であったということと、それらを支えながら生きた青春時代の無名の人々の清純な魂の叫びを消してしまうことはできないことだろう。だからといって 飯野農夫也が言うような「生きた表情を持って国際的な証明」をする力も学識もない私には、このような形でしか後世に書き残す術はないのである。
このようにして発信された光が、やがて鈴木賢二・上野誠・飯野農夫也・・村上暁人・滝平二郎らの馴染み深い素朴な農民画となり、平塚千運一・前川千帆・ 棟方志功・笹島喜平などという国際的にも認知される伝統画に発展し、斉藤清・関野潤一郎・小野忠重・北岡文雄らのように華麗なる美の世界に発展していった ことなどを思えば、この町に生まれこの町に育ったことが誇りにも思えてくるのである。
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